唐澤山神社の由緒

〈御祭神〉藤原秀郷公  〈例祭日〉十月二十五日

明治十三年十月、藤原秀郷公の子孫佐野氏及び旧臣らが、秀郷公の遺徳を称え公の御霊を祀る神社創立のため東明会を組織する。その後明治十六年十月、東明会の尽力により唐澤山古城本丸跡地に当神社が創建鎮座し、明治二十三年十二月一日、別格官幣社(旧社格)に列せられる。

御祭神の藤原秀郷公(生歿年不詳、一説には正暦二年九月廿五日薨去、御寿壱百壱歳とある。)は、平安時代初期の武士で、俗称田原藤太(俵太)とも呼ばれ今より一千年の昔天慶の乱で平将門の討伐等、功績を上げた。

秀郷公は、延長五年(九二七)に下野國(今の栃木県)の警察にあたる押領使に任ぜられ父祖伝来のこの地に参られ、唐澤山に城を築き居城とされた。この後、平将門の乱(天慶二年《九三九年》頃)がおこり、その征伐のため朝廷より遣わされた藤原忠文の軍が到着する前に公は平貞盛と協力して将門を討ち取った(天慶の乱、天慶三年《九四〇年二月十四日》に収束)。この功績により押領使から下野守(栃木県の長官)に任ぜられ、さらに武蔵守も兼任するようになり朝廷より土地一功田をあたえられ、その後代々子孫が城主となりこの地を治めてきた。その他に、秀郷公に関しては「三井寺物語」にあるような「蜈蚣(むかで)退治」等の様々な伝説がある。

唐澤山神社は藤原秀郷公の居城址で、標高二百四十米ながら全山赤松におおわれ断崖と深い谷に囲まれた自然の要塞をなし、今なお当時をしのぶ遺跡が数多くある。本丸跡は現在唐澤山神社の本殿及び拝殿があり、藤原秀郷公が祀られている。二の丸跡は、奥御殿直番の詰所のあった場所で現在は神楽殿がある。三の丸跡は、賓客の応接間のあったところで現在は広場となっている。さくらの馬場は本殿に続く参道の途中にあり、当時の武士が馬を訓練した所で桜が多いのでこの名がある。南城跡は、南城のあった所で現在の建物は東明会の寄進による。

明治ニ十七年、大正天皇(皇太子の時)行啓の栄によくした。四つ目堀は、神橋の下のから掘で、当時はもっと深かったと思われる。なお神橋も当時は外敵に備えた曳橋であった。大炊井は築城の際、厳島大明神に祈願をし、その霊夢により掘ると水がこんこんと湧き出たとの事である。深さ九米、直径八米あり、今日まで水がかれたことはない。車井戸は、当時茶の湯に使用された井戸で、がんがん井戸ともいわれ、深さ二五米余あり龍宮迄つづくとも言われている。

避来矢山は、公が百足退治をした時、龍神より贈られた鎧にその名を発しており、現在は唐澤山神社に功績のあった人々を祀る避来矢山霊廟が山頂にある。ます形は、当時城門があった所でくいちがいともいわれる。天狗岩は物見櫓のあった所で、南面に出た岩がちょうど天狗の鼻の様であったためこの名がついた。

唐澤山は豊かな森に囲まれ、四季折々の様々な自然の景色を楽しむ事ができる。ハイキングコースがあり、三月末~四月上旬にかけては桜を楽しむ事ができ、四月中旬~五月上旬にかけてはツツジが咲き誇り、散策を楽しむ事ができる。又、九月からは、松茸狩りに興じる事ができ、十一月中旬~下旬からは紅葉を楽しむことができる。